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HISTORY

歴史を知る

東光院

東光院本堂

東光院 本堂

東光院の由緒
 正式名称は、岡上山東光院宝積寺(おかのぼりさんとうこういんほうしゃくじ)。寺の創建の時期は不明ですが、江戸時代につくられた『新編武蔵風土記稿』には、「開山開基は詳らかにせずといえど、天正の頃(1573~1592年)までに十一代に及ぶ」と記載されています。また、「行基菩薩が関東下向の折、鶴見川の川岸に光るものがあるのでいかだを降り岡上にあがった。光っている丘の北方を掘ると毘沙門像を見つけ、草庵を建てて奉安したのが寺の始まりであった」という縁起も伝えられており、鎌倉道に向かって東向きに建てられたことが寺名の起こりとされています。
 本尊は大日如来像で、宗派は真言系です。境内には仁王門、鐘突堂、瘡守稲荷、蚕影山祠堂跡などがあり、仁王門の門内左右に仁王像、その背面に六地蔵、階上には阿弥陀三尊を中心に十王他が安置されています。また本堂には、縁起に登場している兜跋(とばつ)毘沙門天立像や、1940(昭和15)年に堰の改修工事中に水深1mの用水路より発見された板碑が安置されています。同寺はたくさんの木々に囲まれていますが、境内のイトヒバ、イチョウ、カキノキは、川崎市選定「まちの樹50選」に選ばれています。

兜跋毘沙門天立像
 兜跋毘沙門天像は多くの場合、西洋風の鎧を身につけ、頭には兜をつけ地天の上に立ち、左右に邪鬼を配する姿に造られています。また、この像の多くは平安時代につくられており、関東では、東光院と南足柄の朝日観音堂だけにしか伝えられていません。
 同寺の像は1m21cm、髻(もとどり)を結い、右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、天女の上に立っています。素朴な作風から岡上で作られたとみられ、制作年代は平安時代と考えられています。川崎市重要歴史記念物に指定されています。

板碑
板碑は供養塔として鎌倉・室町年間に各地に建てられました。岡上の板碑は高さ140cm、幅44cmで「文永4(1267)年丁卯3月15日」と刻まれており、現存する板碑では市内最大、麻生区内では最古のものです。こちらも川崎市重要歴史記念物に指定されています。
蚕影山祠堂跡
 江戸時代に生産が始まった生糸の流通に、岡上の近くを通る津久井街道や鎌倉街道が「絹の道」として賑わい、必然的に岡上においても生糸生産が盛んになりました。岡上の生糸生産量は柿生十か村の中では群を抜いて高いのもであったといわれています。岡上では昭和初期まで養蚕が盛んで、その時代には「蚕講中」が組織され、頼母子講と呼ばれる無尽講も行われていました
 蚕影山とは蚕の神のことです。1860(万延元)年頃、筑波の蚕影神社より勘請された蚕影山祠堂覆堂が東光院境内に建設されました。1940(昭和15)年頃まで養蚕隆盛を見守り、人々の信仰を集めていましたが、養蚕の衰退とともにお堂の維持が困難に。岡上の養蚕講中より1969(昭和44)年に川崎市に寄贈され、翌年に日本民家園に移築されました。祠堂は蚕影山大権現を祀った宮殿と、これを覆う鞘堂(さやどう)から構成されます。覆堂は幅2.73m、奥行4.55mの茅葺で正面が入母屋造り、背面が寄棟造りです。宮殿は1863(文久3)年の建立で、その四囲に蚕渡来の由来を表す「金色姫伝説」を描いたレリーフ状の木彫りが施されています。

瘡守荷(かさもりいなり)
 疱瘡の神様といわれ、疱瘡ができると土で団子を作って供え、治るとお礼に米の団子を供えました。種痘が普及するまで、疱瘡(=天然痘)はもっとも怖れられた流行病でした。現在、瘡守荷は東光院境内にあります。

参考・引用:
『岡上の魅力再発見』(「岡上の魅力再発見」調査会・岡上町内会、2010年発行)
『麻生観光ガイドブック』(麻生観光協会、2022年3月改定)
川崎市教育委員会 文化財さんぽ 麻生区 東光院
川崎市教育委員会 指定文化財等紹介 建造物 蚕影山祠堂

東光院


川崎市麻生区岡上2-12-1(小田急線・鶴川駅より徒歩12分)

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